叩かれて女乱るる祭の夜 長谷川秋子(はせがわ・あきこ)
(たたかれて おんなみだるる まつりのよ)
「長谷川秋子」という俳人は名前だけは知っていた。
「水明」二代目の主宰。
とにかく「すごい美人」だということも知っていった。
美人薄命というが、その通りで40代の若さで逝った。
写真を見せてもらったことがあるが、私が知る中で、俳句史上最も美しい女人である。
ただ、「水明」といえば、なんといっても初代主宰・長谷川かな女である。秋子はかな女の息子の嫁であるから間接的ではあるが、ようするに「世襲」で、さほどの実力俳人だとは思っていなかった。
今回、仕事で秋子の句を読む機会があり、実に驚いた。
なんと艶やかで美しい作品だろう。
激しい感情やエロティシズムがあり、繊細かつ大胆である。
なにより現代的感覚が鋭い。
春の川指を流してしまひたく
雪女とならねば見えぬ雪の城
冬ばらの影まで煎りしとは知らず
男根に初日当てたり神の犬
禁じられしことみなしたき椿の夜
柘榴吸ふいかに愛されても独り
嘆くでもなし放浪のかたつむり
悲しむもの集まれよ今落葉焚く
わが尿をあつしと思ふ黄落期
日傘まはし女一人の無駄遣ひ
ことごとく終りはげしき冬迎ふ
病むもよし死ぬもまたよし油蝉
生きることいそがねば雪降りつくす
杉田久女のような激情を持ちつつ、久女、かな女を凌駕する句の美しさを持っている。
そうでありながら全篇に「儚さ」をたたえている。私はそこが秋子の特徴だろうと思っている。
あれほどの美しい人が、狛犬の男根や、自分のおしっこが熱い、などと大胆に詠っていることに驚く。
俳句に駆ける彼女の覚悟なのだと思う。
妻より、母より、女より、一人の俳人、詩人であるという覚悟だ。
大正15年の生まれだから存命なら90代あたりだが、その感性は現代の女性俳人のそれを凌駕している。
この感覚に太刀打ちできるのは鳥居真里子さんくらいではないか。
実に惜しい人材だった、と思う。
掲句。
「叩かれて」とはどういう意味だろう。
夜空に響く祭太鼓の音にも思えるが、想像すれば男女の情交の一場面にも思える。
古来、祭とは神を喜ばせる行事だが、同時に男女の出会いの場であった。
簡単に言えば、古代の祭は、今でいうフリーセックスの場だった。
誰の記憶にもあると思うが、思春期の頃、好きな子が来ていないか、胸弾ませて夜店を歩いたりすしたことがある。
現代でもその名残は残っているように思う。
「祭の夜」に狂おしいまでの女の情念がある。
太鼓の音に女の情念が燃え立っているのだ。