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Channel: 林誠司 俳句オデッセイ
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長谷川秋子のこと

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叩かれて女乱るる祭の夜      長谷川秋子(はせがわ・あきこ)

(たたかれて おんなみだるる まつりのよ)


「長谷川秋子」という俳人は名前だけは知っていた。
「水明」二代目の主宰。
とにかく「すごい美人」だということも知っていった。
美人薄命というが、その通りで40代の若さで逝った。
写真を見せてもらったことがあるが、私が知る中で、俳句史上最も美しい女人である。

ただ、「水明」といえば、なんといっても初代主宰・長谷川かな女である。秋子はかな女の息子の嫁であるから間接的ではあるが、ようするに「世襲」で、さほどの実力俳人だとは思っていなかった。

今回、仕事で秋子の句を読む機会があり、実に驚いた。
なんと艶やかで美しい作品だろう。
激しい感情やエロティシズムがあり、繊細かつ大胆である。
なにより現代的感覚が鋭い。

春の川指を流してしまひたく
雪女とならねば見えぬ雪の城
冬ばらの影まで煎りしとは知らず
男根に初日当てたり神の犬
禁じられしことみなしたき椿の夜
柘榴吸ふいかに愛されても独り
嘆くでもなし放浪のかたつむり
悲しむもの集まれよ今落葉焚く
わが尿をあつしと思ふ黄落期
日傘まはし女一人の無駄遣ひ
ことごとく終りはげしき冬迎ふ
病むもよし死ぬもまたよし油蝉
生きることいそがねば雪降りつくす

杉田久女のような激情を持ちつつ、久女、かな女を凌駕する句の美しさを持っている。
そうでありながら全篇に「儚さ」をたたえている。私はそこが秋子の特徴だろうと思っている。
あれほどの美しい人が、狛犬の男根や、自分のおしっこが熱い、などと大胆に詠っていることに驚く。
俳句に駆ける彼女の覚悟なのだと思う。
妻より、母より、女より、一人の俳人、詩人であるという覚悟だ。
大正15年の生まれだから存命なら90代あたりだが、その感性は現代の女性俳人のそれを凌駕している。
この感覚に太刀打ちできるのは鳥居真里子さんくらいではないか。
実に惜しい人材だった、と思う。

掲句。
「叩かれて」とはどういう意味だろう。
夜空に響く祭太鼓の音にも思えるが、想像すれば男女の情交の一場面にも思える。
古来、祭とは神を喜ばせる行事だが、同時に男女の出会いの場であった。
簡単に言えば、古代の祭は、今でいうフリーセックスの場だった。

誰の記憶にもあると思うが、思春期の頃、好きな子が来ていないか、胸弾ませて夜店を歩いたりすしたことがある。
現代でもその名残は残っているように思う。

「祭の夜」に狂おしいまでの女の情念がある。
太鼓の音に女の情念が燃え立っているのだ。


白靴   鎌田 俊

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白靴や二十世紀にまだ執す      鎌田 俊

(しろくつや  にじゅうせいきに まだしゅうす)


俳句において「季語」は重要である。
「季語」という伝統にのっとって俳句を作る。
「季語」の持つ情緒は「作り手」と「読み手」をつなぐものである。
季語の情緒を外してしまうと読み手の共感を得られなくなるわけである。

しかし、だからといって、季語の既成情緒からいつまでもはみ出さないようでは俳句は停滞してしまう。
判を押したような俳句が氾濫するばかりである。
俳句、そして季語の情緒を踏襲しつつ新しい情緒を展開してゆかなければならない。
ここが難しい。

掲句。
「白靴」には「昭和」の匂いがする。
正確には「昭和」以前というべきか。
どこか少年時代の郷愁を感じる。
掲句のテーマはそこにあるわけだが、

昭和に執す

ではありきたりである。

二十世紀

が新しい。
二十世紀には戦争があれば経済成長があり、バブルがあった。
昭和には郷愁がプンプンするが、二十世紀にはそういう甘さがない。
私には「激動」というイメージがある。
白靴の「郷愁」と二十世紀の「激動」…。
この取り合わせが斬新である。

仕事のない休日~横須賀、湘南国際村、湘南Ova、荒崎海岸

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今日は風が強いが、とても気分がいい。
私用はたくさんあるが、仕事はない。
横須賀の自宅で過ごした。

昼過ぎからは「湘南国際村」へ出かけた。
ここは巨大研修センターだの、宅地分譲だの、おしゃれなカフェなどがあり、どういうところなのかよくはわからないが風光明媚なところである。
山上に広がる開拓地で、眼下に湘南葉山の高級住宅街がひろがり、相模灘、江の島が見える。
その上に、雪をかぶった五月の富士山が見えた。
写真に撮ってみたが、実際はもっとはっきり美しく見えた。
よ~く見ていただくと、富士山が見えるはずだ。

こんな爽快で美しい風景はなかなかない。
ここに住んで本当によかった、と思う。

そのあとは、国際村内にある

湘南Ova

でランチ。

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プールもある、おしゃれなリゾートホテルである。
値段もそれほど高価でない。
ただ、味はまあまあだった。
それにしても静かで、気分がいい。

そのあとは荒崎海岸へ。
ここも富士山が美しい。

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ここは(私の記憶では…)角川源義が訪れ、

舟虫の断崖碧き油照

(ふなむしの きりぎしあおき あぶらでり)

と詠んでいる。

波の浸食が激しく、それほど巨大ではないが「断崖」の多いところだ。
そんなことも考えながら、海辺をのんびり散策した。
やたらと鵜と鳶が多かった。
私の住んでいる長浜の鳶と較べ獰猛だった。
最近、長浜の海で鵜を見かけなくなったが、ここにはまだずいぶんいた。

帰路、海沿いをゆくたくさんのランナーを見かけた。
なんでも、

よりみちマラソン

というイベントらしい。
なんと「100キロマラソン」だそうだ。
いろいろなところに誘導員や給水ポイント、休憩所が設置されていた。
それにしても「100キロ」とは…。
休憩所で小休憩している男性に、

本当に100キロ走ってるんですか?

と聞いたら、

そうです。

と言った。
この時点で88キロ走ってきたそうだ。
見るからに走りこんだ締った体だった。
40キロ踏破くらいでひ~ひ~言っていた自分が情けない。
年に一度行われるそうなので、次回は僕もチャレンジしようかなとちらりと思った。

「おくのほそ道」を歩く   宮城県東松島市矢本

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「高城」という集落を抜け、人も通らない雉兎蒭蕘の道を抜け、「小野」というところへ向かう。
『曽良随行日記』にそう書いてある。

芭蕉と曽良は今の国道45号を歩き、「鳴瀬」という集落で川を渡ったはずだが、津波のせいなのか、橋は修復中で渡ることが出来ない。
上流の橋に戻るのも大変なので東岸へは渡らず、そのまま西岸を歩く。
田植シーズンで、海沿いの田には鴉やシラサギに交じって「カモメ」「ウミネコ」もいた。
河口近くの大きな橋を渡り、そのまま国道45号を歩くと、ふたたび仙石線へ出て、陸前小野駅、鹿妻駅を通る。
無人駅の鹿妻駅の広場で、小休憩したあと進んでいくと、「矢本」に出る。
矢本では「面白いエピソード」が『曽良随行日記』に記されている。

芭蕉と曽良はこのあたりで喉が渇いたので近くの民家で白湯を所望した。
しかし、どこもくれなかった。
それを見た57、8のご隠居侍が、この地の知人に、白湯をあげるよう話をつけてくれた。
そして、石巻に着いたら、新田町の四兵衛のところに泊まるといい、とアドバイスをしてくれた。
名を尋ねると、根古村の「コンノ源太左衛門」と名乗った。

という話である。
「コンノ」は「今野」「近野」であろう。
「根古」は私が通れなかった北上川東岸の町である。
矢本という街自体は小さな町で、そばに航空自衛隊松島基地があった。

詩歌の伝統とオリジナルについて

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加藤楸邨の俳句を調べていたら、

たんぽぽのぽぽと絮毛のたちにけり

という句を見つけ、咄嗟に坪内稔典さんの代表句、

たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ

を思い出した。
稔典さんの句に出会った時は本当に驚いた。
「たんぽぽのぽぽ」なんてすごい発想だな~、と感心した。
が、楸邨にもこういう句があるとわかると、特別凄い発想ではないのかもしれない。

同じように思ったことがある。
鷹羽狩行さんの、

みちのくの星入り氷柱吾に呉れよ

(みちのくの ほしいりつらら われにくれよ)

という句に出会った時も感動した。
「氷柱にみちのくの星が入っている」という発想も凄いが、「吾に呉れよ」というのに痺れた。
ロマンティシズムに満ち溢れ、若々しい詩情がある。
ただ、数年後、中村草田男の句に、

梅雨の夜の金の折鶴父に呉れよ

(つゆのよの きんのおりづる ちちにくれよ)

という句を見つけた。
これも鷹羽さんオリジナルの表現ではなかったのか、と思った。

私はこれらは批判しているわけではないし、類句だとも思っていない。
これらを「類句」だの「盗作」だのという人は詩歌の伝統をわかっていない、と私は考える。

もともと、たった17音しかない詩空間で、絶対的なオリジナル表現を生み出すのは至難の業だ。
ムリとはいわないが、ほとんどムリと言ってもいい。
「詩歌の新しさ」に100パーセントオリジナルはあり得ない。
そのことは先人たちはとうに気が付いていたのである。
芭蕉も「新しみ」を追求したが、伝統の上に立脚した「新しみ」であったはずである。
詩歌の伝統に、少しだけオリジナリティを加えることが出来ればそれで十分だと先人たちは考えていた。
そのことは以前に書いた。

東海道を歩く 四日市~石薬師4 佐佐木信綱記念館、信綱生家

坪内さんの句は楸邨の句と違うし、鷹羽さんの句も草田男の句とは違う。
「詩情」の質が違うのである。
一部分だけ似ていることは何の問題もない。かの楸邨の作ではあるが、俳句としては坪内さんの句の方が断然優れている。

以前、歌人の岡井隆さんと俳人の角川春樹さんの対談に立ち会ったことがある。
その時に岡井さんが、寺山修司の俳句は、先人たちの俳句から発想や表現を持ってきているのが多い、…つまり簡単に言えば「盗作疑惑」があることに触れ、春樹さんの意見を求めた。
春樹さんは間髪を入れず「そんなことは全然問題ない」と言い、

本歌取りは詩歌の伝統じゃないですか。

と答えたことがとても印象に残っている。

修司の句も、先人や先輩の句をモチーフにしつつ若々しい抒情に作り替えている。
これも「発想」や「表現」を借りつつ、独自の世界を出している例である。

もちろん評判を得たいからとか、句会で点数を取りたいから、という安易さでやるのはやめてもらいたい。
ただ、この伝統を安易に「類句」「盗作」などと言ってほしくない。
私もこの方法を見習いたいし、多くの人に意識してもらいたいと思っている。

陽炎   坪井杜国

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(愛知県名古屋市)

陽炎に燃残りたる夫婦かな      坪井杜国(つぼい・とこく)

(かげろうに もえのこりたる めおとかな)

坪井杜国は江戸時代の人。
名古屋俳壇の新鋭俳人で、松尾芭蕉の愛弟子だった。
杜国の事は以前にも書いたことがある。

小春

杜国は名古屋で有数の米問屋を営んでいたが、当時ご法度だった「空米取引」が発覚し、家財没収の上、伊良湖埼の保美へ流罪となった。
本で読んだ限りだが、「空米取引」はようするに「米の先物取引」らしい。
実際の米がまだ収穫されていないのに、売買を契約してしまうこと、差し押さえてしまうことだ。
先物取引をすると飢饉が起きた場合、経済が大混乱してしまう懸念があった為、幕府はそれらを禁止していたのである。
ただ、当時は暗黙の了解で誰もがやっていたことらしい。
杜国のような大店であれば、自分たちもしておかないと安定して米が確保できない、という事情があっただろう。
杜国の場合、それが何らかの事情で表沙汰になってしまったのだ。

掲句は流罪となった保美での杜国の一句。
なんと「子をころして」という前書きがある。
すさまじい俳句である。
「子をころして」とはどういうことか。
おそらく「間引き」したのではないか。
江戸時代…というか、それ以前も「間引き」というのは貧しい農村ではよく行われていたらしい。
経済的事情で子供を養うことができないので、なんらかの方法で子供を殺してしまうのだ。
当時は避妊方法も有効なものはなかった。

ただ、杜国の場合、罪人、家財没収とはいえ、店の番頭も伴って流れて来たから、貧しくて…ということではあるまい。
その理由はよくわかない。
「罪人の子」をこの世に残しても…、という自暴自棄のような考えでもあったのだろうか。

掲句。
勝手に想像すれば、子供を埋葬したあとの風景である。
子どもの遺骸を埋め、その場に立ち尽くす夫婦。
その周りには陽炎が燃えるようにあるばかりである。
「陽炎」は流罪の、そして子供を殺してしまった夫婦のうつろな心を象徴している。

また、ここでは「燃え残った」と書いている。
では「燃えていった」ものは何か?
子どもであり、子供の魂である。
子どもの魂は陽炎に燃えて消えていいったが、杜国夫婦は消えてゆくことができない。
美しい人の命は陽炎に燃えて昇華してゆくが、杜国夫婦だけが罪人のごとく、昇天されることを許されない。
そういう「罪の意識」「死への願望」をも感じるのである。

芭蕉は多くの弟子を抱えながら、一人、独自の高尚な詩の精神世界を築いた。
この句は「高尚」ではないが、深い精神世界が見事に描かれている。
芭蕉以外にもこういう「高み」へ到達した俳人がいたのは驚きである。

杜国は後年、「伊良湖の鷹」とも称された。
かつて杜国は確かに「鷹」だった。
20代の若さでありながら、天下の大都市・名古屋有数の豪商であり、絶世の美男子であり、俳句の才能も優れていた。
その名古屋の鷹が、今は失意の伊良湖の鷹となって黒潮の空を彷徨っているのである。
同時作に、

水錆て骸骨青きほたるかな

(みずさびて がいこつあおき ほたるかな)

というさらに凄まじい句がある。
杜国ははるばる訪ねてきた芭蕉を伊良湖に案内した。
その時、芭蕉が伊良湖で杜国に贈った句、

鷹ひとつ見付けてうれし伊良湖崎

の「鷹」は現実の鷹でもあり、杜国のことでもある。
二人はその後、名残を惜しむように関西地方に旅した。
杜国はその数年後に没した。




「おくのほそ道」を歩く 宮城県石巻市 石巻

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(宮城県石巻市  石巻駅)

石巻に「やうやう」の思いでたどり着く。
この日は芭蕉の歩行距離以上歩いたが、到着したのは、なんと夜9時であった。
かなり腿や足裏が痛かったが、ビジネスホテルに泊まり、風呂にゆっくり浸かったら、なんとか痛みは消えた。

泊ったホテルは石巻グランドホテルであるが、ここは芭蕉が宿泊したところである。
初めてではないだろうか、芭蕉宿泊地と同じ所に泊れたのは。
『曽良随行日記』に、

四兵へヲ尋テ宿ス。

とある。
その「四兵衛」さんの宿が、今は石巻グランドホテルとなっている。
これは前回の「矢本」で紹介したが、親切なお侍さんが「ここに泊るといい」と紹介してくれた宿屋である。

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そのことをホテルの人に尋ねると、石碑まで案内していただいた。
石碑は写真のすぐ右脇にあった。

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「グランドホテル」なんて贅沢な…と思われるかもしれないが、実に低価格なのである。
一泊5000円ちょっとで泊れた。

石巻は芭蕉の地でもあるが、漫画家・石ノ森章太郎の故郷でもある。
北上川河口には石ノ森章太郎を記念した漫画館がある。
繁華街のいたるところに、「009」など、石ノ森漫画のキャラクターのモニュメントや絵があふれている。
石巻駅などはもっと派手で凄い。

福島の須賀川が円谷英二の故郷で、ウルトラマンのモニュメントが町にあふれていた。

「おくのほそ道」を歩く㊴  福島県須賀川市  乍単斎宅

おくのほそ道は、どうやら漫画特撮キャラ街道でもあるようだ。



鷹  山口誓子

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鷹の羽を拾ひて持てば風集ふ     山口誓子(やまぐち・せいし)

(たかのはを ひろいてもてば かぜつどう)


先日、杜国のことを書いたが、

陽炎  坪井杜国

その流浪先の伊良湖埼へ行くと、この句碑がある。
伊良湖埼と言えば「鷹の渡り」「鷹柱」である。
また、杜国自身も「鷹」であった。

「鷹の羽」は実際の鷹の羽根であっただろうし、悲嘆のうちに死んだ杜国の名残でもああっただろう。
その羽根を拾うと、海辺の風が吹き、羽根が震えた。
「風が吹く」ではなく「風集う」がいい。
風が何か意志をもっているかのように集っている。
伊良湖埼の風もまた、杜国を慕っているのである。


「おくのほそ道」~平泉その2

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【原文】
かねて耳驚かしたる二堂開帳す。
経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置(じ)す。
七宝(しっぽう)散り失せて、珠(たま)の扉(とびら)風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。

五月雨の降り残してや光堂
 
【意訳】
かねがねその壮麗さの噂を耳にし、驚嘆していた中尊寺の二堂を参拝する。
経堂は清衡、基衡、秀衡の奥州藤原三代の将の像を残し、光堂は同じく三代の棺を納め、阿弥陀三尊の仏像を安置してある。
かつて堂を華やかに飾った七宝も散りうせて、珠玉をちりばめた扉は歳月の風にさらされて破れ、金色の柱も長年の霜や雪のために朽ち、もう少しのところで廃れ崩れて、むなしい草むらとなるところを、堂の四方を新たに囲み、上から屋根を被せてて、風雨を防いである。
こうして、かりそめの間ながら、なお千古の記念となっている。

五月雨の降り残してや光堂

(この寺の建立以来、五百年にわたって、毎年降り続けてきた五月雨も、ここだけは憐れに思い降り残したのであろう。今、五月雨にけむる空の下で、光堂は燦然と輝き、かつての栄華を偲ばせている。)
 
○二堂…中尊寺の経堂と光堂。
○経堂…清衡創建。一切経一万六千巻等を納めた蔵。
○三将の像…奥州藤原三代の清衡・基衡・秀衡の像。実際はない。
 文殊菩薩、優塡(うてん)王、善財童子の三尊を安置。
○光堂…金色堂のこと。清衡が創建。
○三代…奥州藤原三代の清衡・基衡・秀衡
○三尊…阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩。
○七宝…七つの宝、装飾品。金、銀、瑠璃、玻璃、珊瑚、瑪瑙など。
○珠…もともとは真珠。真珠に似た丸い玉。

「おくのほそ道」を歩く  宮城県石巻市 日和山公園

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曽良の『随行日記』によると、石巻に到着した芭蕉一行は、一休みしたあと、「日和山」へ登っている。
(まったくなんという脚力か…。)

着ノ後、小雨ス。
頓(※やがて)而止ム。
日和山と云へ上ル。
石ノ巻中不残見ゆル。

とある。

石巻に着いたあと、小雨が降る。
やがて止む。
日和山というところへ登る。
石巻の街が残らず見える。

という意味である。
今は「日和山公園」になっている。
ここにはさまざまな文学碑、宮沢賢治や種田山頭火のものがある。
多くの文人墨客、そして芭蕉一行が見わたし、その景観を愛でた石巻市街も、「3・11」で壊滅的打撃を被った。
復興は着実に進んでいるが、やはり痛々しい。

『おくのほそ道」では、

「こがね花咲(さく)」とよみて奉たる金花山(きんかざん)、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈の煙立つづけたり。

【意訳】
大伴家持が「こがね花咲く」と、帝へ献上した歌の、金華山が海の上に見え、数百の商船が入江に集まり人家が争うように建ち、炊事の煙が盛んに立ちのぼっている。

奈良時代、日本で初めて、ここで「金」が見つかった。
それまで日本には金はない、と考えられていたのである。
この慶事を、大伴家持が、

すめらぎの御代栄えんと東(あずま)なるみちのく山に黄金花咲く

と詠み、天皇に「寿ぎの歌」として献上した。

金華山で金が見つかった。
(遠いみちのくに黄金の花が咲いた。これも天皇の御威光のなせる業ですな~。)
天皇の御代もますます栄えますな~。

と言っている。
ただ、実際、その時、金が見つかったのは金華山ではなく、ここよりもう少し内陸へ入った「湧津」というところらしい。

ついでに言うと、金華山は海の上に見える、と芭蕉は書いているが、それは嘘で、ここから金華山を見ることは出来ない。
牡鹿半島にさえぎられて見えないのである。

日和山公園にはまだ八重桜が咲いていた。
朝、日和山へ登ると、ひろびろと、やや曇った海が見えた。
やたらと話しかけてくる陽気な地元のおじいさんがいたので、斜め左に横たわっている島のようなものを指さして、

あれが金華山ですか?

と念のため、尋ねたら、案の定、

あれは牡鹿半島だ。

と答えた。
やはりここからは見えないのだそうだ。
私が持っている「ノルディックウォーキングスティック」を見て、

富士山でも楽に登れそうだな~。

と言われた。
もちろんそれは無理だ(笑)。

この「おくのほそ道」の記述(日和山から金華山が見えるという記述)は芭蕉の「創作」ではないか、と言われている。
ただ、私はこの風景を見て、芭蕉はたんに「勘違い」したのではないか…という思いが湧いた。
ちなみに金華山は「島」である。牡鹿半島の先にある小さな島自体を金華山という。)
上の写真を見て欲しい。
左に濃く半島の影があり、その右奥に霞む島(?)が見える。
あれが金華山かと思うが、あれは牡鹿半島の一部なのだそうだ。

金華山へは、石巻から船が出ているそうだ。
今回は先を急ぐ旅だが、今度、立ち寄った時は乗ってみたいものだ、と思いつつ、私も平泉を目指して歩き始めた。


「おくのほそ道」を歩く  宮城県石巻市  袖の渡し

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「おくのほそ道」では、道に迷ってしまい「思いがけず」石巻に来てしまった…、と書いている。

ただ、それは「創作」で、石巻訪問は予定の行動だった、と言われている。
その理由はいろいろ指摘されているが、主な理由として、石巻が「金産出地」であったためである。
中国の桃源郷、あるいは南米大陸のエルドラド(黄金郷)などは(あくまでイメージだが…)だいたい「秘境」ということになっている。
映画や物語では、不思議な道に迷い込み、迷路のような道を抜けるとそこに「桃源郷」「エルドラド」があった…、という設定が多い。
芭蕉はいにしえの「金産出地」だった石巻を「桃源郷」「エルドラド」のような雰囲気を出したかったのではないか。
それゆえ「道に迷った」フリをしたのではないか、と言われている。

考えてみれば、「歌枕」好きで、「歌枕」の地を訪問するのが大好きだった芭蕉が、ここを外すわけがない。
ここは松島や塩釜に負けないほどの「歌枕」があるのだ。

『曽良随行日記』にも、日和山に登った時、

奥ノ海(今、ワタノハト云)・遠嶋・尾駮ノ牧山、眼前也。
真野萱原も少見ゆル

と書いてある。

奥の海
遠嶋
尾鮫の牧山
真野の萱原

すべて「歌枕」である。

日和山を下りると、歌枕「袖の渡り」へ行き、住吉神社に参詣した、と書いてある。
「袖の渡り」は北上川沿いにある。
昔の渡し場である。
芭蕉のころはすでに渡し場ではなかったようだ。
もちろん今も違う。

みちのくの袖の渡りの涙川心のうちにながれてぞすむ     『相模集』

芭蕉が参詣した住吉神社もあった。

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ここも津波に襲われただろう。
しかし、神社や鳥居はしっかりしている。
新しく建て替えた様子もない。
私の他にはたまに近所の人が参拝、散歩に来るのみの静かなところである。


葛飾区水元公園菖蒲園に行ってきました。

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花菖蒲正しく水に映りけり      久保田万太郎


今日は句会のあと、句会仲間と葛飾区水元公園の菖蒲園に行ってきた。
昔、埼玉県に住んでいた時、この近くに住んでいた。
ここには自転車などで来たことがある。
小学校、中学校の頃のことであるから、もう40年ぶりになるだろうか。

当時はとにかく広かったが、あんまりパッとしない公園だったが、カッコいいとまでは言わないが、なかなかの公園になっていた。
何より菖蒲園が大きい。
こんなに大きい菖蒲園は都内にはないのではないか。
様々な種類の花菖蒲が艶やかに咲いていた。

ちょうど花菖蒲祭が行われていて、たくさんの人がいた。
なんとか一句作りたいと思ったが、掲句の万太郎の句がちらついて、うまく出来なかった。
うまい一句だ。

「おくのほそ道」を歩く  岩手県登米市柳津

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石巻市街を抜け、岩手県の一関を目指して歩き続ける。
北上川沿いを歩き、登米市で左へ折れ、いくつかの峠を越えてゆくのである。
まずは石巻市内の旧北上川沿いを歩いてゆく。
JR石巻線も近くを通っている。

「曽波神」というところを過ぎると3・11で決壊したのか、河川工事をしていて、芭蕉が通ったと思われる道が通行止になっている。
しかたなく、数百メートル西にある国道34号を歩く。
しばらく行けば鹿又というところに出る。

余談だが横浜在住で「蛮」主宰の鹿又英一という俳人がいる。
その方のご先祖は仙台藩剣術指南役だった。
言うまでもなく、仙台藩は加賀藩、薩摩藩に次ぐ大藩である。
そこの剣術指南だったというから相当の腕前だっただろう。
鹿又さん自身も剣道八段だった、と思う。
娘さんは日本トップクラスの女流剣士である。
ふと、鹿又さんのご先祖の出身地はここではないか、と思った。
後日、お会いした時にお聞きしたら、やはりそうだった。

国道34号はやがて北上川沿いに出る。
芭蕉が通った道に再び出ることが出来たが、この道はかなり怖い。
車道はきれいに整備されているが「歩道」がないのである。
きらきらと光を帰す北上川は美しかったが、そばを車が走っていて気が気ではない。
幸いにも車道は広く、親切なドライバーが多かったのか、ぶつかりそうな危険は運転はほとんどなかった。
ただ、やたらと長い。
こう言っては何だが、仙台、松島、石巻を過ぎれば、はっきり言って、とんでもない田舎になる。
お店もなく、人家もなく、コンビニもない。
時々大きな砕石工場があり、何をやっているのかわからない会社の建物があった。
電車も通っていないし、バスも通っていない。
ひたすら緑豊かな北上川の傍を歩いてゆく。
石巻から一関は約80キロある。
芭蕉と曽良は40キロ、40キロで一泊二日で歩いている。
フルマラソンを二日やっているようなものだ。

『曽良随行日記』によると、この日は道連れがいた。
気仙沼まで行く人と同道し「矢内津」で別れた、とある。
矢内津は今は「柳津」である。
そこまで行けば気仙沼線が通っている。
芭蕉はそこから先の「登米」まで歩いているがとてもムリである。
前日の40キロ踏破でかなり足が重い。

柳津は登米市内で、ここからはいよいよ岩手県である。
柳津に着くと、案内板があった。
ここは芭蕉ゆかりの道だ、とある。
ただ、この北上川は何度も氾濫を繰り返し、今では芭蕉が歩いた道がどこだったかわからなくなってしまった、と書いてある。
なんだか拍子抜けしたが、景色は同じようなものだろう。

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気仙沼線は、石巻の「前谷地」駅と「気仙沼」駅を結んでいる。
が…、今はここ柳津が終着駅になっていて、ここから気仙沼へはバスが運行している。
利用者が少なくて廃線になったのかな…、と思ったが、そうではなく、ここから先は沿岸部で、3・11で壊滅してしまったそうだ。



「おくのほそ道」を歩く  岩手県登米市

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柳津(矢内津)を過ぎ、なおも国道34号、北上川沿いを歩いてゆくと、にわかに「町」の華やぎが現れる。
北上川に掛かる大きな橋が見え、その橋を左に渡ると「登米」(とめ)の市街地に着いた。
『曽良随行日記』には、
 
矢内津(曇)(一リ半。此間二渡し二ツ有。)戸いま(伊達大蔵)(検断庄左衛門。)宿不借(儀左衛門)、ヨツテ検断二告テ宿ス。
 
とある。
 
「登米」のことを「戸いま」と記している。
柳津と登米6キロの間に渡しが二つあった、と書いてある。
さらに「登米」は伊達大蔵(だて・たいぞう?/だてのおおくら?)が治めている、検断(村役人)は庄左衛門だ、と書いてある。
登米藩は城下町である。
もちろん仙台藩の一部だが、仙台藩には「○○伊達家」という伊達一門がおり、それぞれ仙台藩の分藩を持ち、治めていた。
登米藩はもともと伊達家家来筋の白石氏が治めていたが、養子縁組を経て「登米伊達家」となり、伊達家一門となった。
一万五千石~二万石ほどである。
 
実はここは「伊達騒動」発端の地。
こまかいことは書かないが、(…というより伊達騒動ってなんか複雑でよくわからない。)登米伊達氏と涌谷伊達氏との領地をめぐる争いが伊達騒動の発端となった。
伊達騒動はだいたい1670年くらいには終わっているので、芭蕉が訪れたのは伊達騒動の十数年後になる。
その時の登米藩主は伊達村直である。
この人を「大蔵」というのだろう。
そして「検断」とは「村役人」…名主などである。
芭蕉さんは石巻あたりで紹介されたのであろう、儀左衛門さんのところに宿泊予定だったが、儀左衛門さんの都合が悪く、村役人の庄左衛門さんのところに宿泊した…というわけである。
 
さて、この「登米」だが実にきれいな街である。
感動すらした。
武家屋敷などが往時の面影のまま残っている。
街の区割りも綺麗で、街全体に品がある。
電車さえ通っていない田舎だが、電車が通らなかったおかげで、あまり開発されず、街並みが残ったのだろう。
メインストリートは観光客で賑わっていた。
 
さて、芭蕉が宿泊した検断屋敷跡は北上川の土手にある。

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土手…というのがおかしい。
おそらく当時は平地で、近代になって土手が出来たのであろう。
その時、検断の家も毀された、と考えるべきだろう。
しかし、平地というのも怖い。
北上川は目の前である。
ここもたびたび水害にあったのではないか。

崎陽軒のシュウマイと、おいしいと思う条件

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「崎陽軒シウマイ」を買って来た。
これから食べる。

最近は、大阪の蓬莱551(…だったかな?)のシュウマイが人気らしい。
私も食べたことがある。
が、やっぱり食べなれた崎陽軒がいい。

関西の俳人とお話した時、関西がいかにおいしいものにあふれているところかを自慢された。

冗談じゃない!
日本のうまいものは全部東京に集まってんだ。

と私は(言わなかったが)思った。
確かにうまいものは東京にもたくさんある。
ただ、東京の場合、それを食べるには高額な料金を払わなければいけない。
関西は安くてうまいものにありつける。
そこには異論はない。

ただ、思うことがある。
私の場合、「どこで」食べるか…、が最近特に重要になってきた。
東京や大阪などにはおいしいものが溢れている。
でも、最近はそんなにうまいとは思わなくなった。

単純な例えだが、

「野沢菜」は信州で食べてこそうまい。
「蕎麦」は信州がいい。
また、清らかな水が流れ、せせらぎの音が聞こえるところで食べると気分がいい。

例えば、

同じくらいおいしい「ステーキ」を東京で食べるのと那須高原で食べた場合、後者のほうがうまい。
同じくらいおいしい「潮汁」を東京で食べるのと、千葉の房総で食べた場合、後者のほうがうまい。

そう思うようになった。
崎陽軒もやっぱり横浜、横須賀で食べたい。
簡単に言えば「景色もごちそう」ということである。

ただ、昔の地方は調理士のレベルがあきらかに低かった。
プロ意識が低かった、と言ってもいい。
おいしい素材があっても、調理の程度が低いのでうまくはなかった。

ただ、最近は東京銀座、あるいはヨーロッパで修業して、故郷で店を開業する人が増えて来た。
私がお気に入りの奈良市のイタリアンのシェフも、銀座のなんとかという名店で修業をして、数年前に奈良市で開店した。
昔はそういう優秀な人がいても、地方では商売がなりたたなかった。
客の食の意識も低かった、と言わざるを得ない。

20年くらい前、叔父と和歌山を旅した時、

寿司、てんぷら、蕎麦、うどん、日本料理

と書かれた看板の店に入った。
酔った叔父が、

なんで、こんなにいろいろやってんの?

と主に聞いた。
最初は曖昧なことを言っていたが、後のほうで主が、

私も本当は寿司一本で勝負したい。
でも、こういうところではムリなんですよ。

とポロっと本音を言ったことを今でもよく覚えている。

今も、大都市圏ばかりに何事も集中している、という印象があるが、そういう点では、最近は地方の「レベル」が着実にあがっている。
寿司、本格的なフレンチ、イタリアン一本で十分やっていけるようになったのだ。
東京や大阪にいなくても食文化を楽しめる。



「おくのほそ道」を歩く 岩手県一関市

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登米から一関中心部までは約40キロある。
正直、私は歩きとおす自信がない。
芭蕉たちは前日も40キロ歩いている。
私は30キロちょっとの柳津でギブアップした。

このへんは鉄道が通っていないが、一関の手前まで行けば東北本線が通っている。
そこまで頑張ろうと思い、歩く。

前日の北上川沿いの道ではほとんど…というか、誰一人歩いている人を見かけなかったが、このルートは、時折、リュックを背負って歩いている男性を見かける。
ただ、これといった見どころはない。
『曽良随行日記』にも

皆山坂也。

(みな、やまさかなり)

と書いてある。
しかし、風景はのどかでいい。

芭蕉は、

上沼新田→安久津→加沢→一関

というルートを通っている。
今のほぼ国道342号とほぼ同じになる。
「一関街道」ともいう。
今のルートでいえば、

(登米市)中田町上沼→(一関市)花泉町湧津→花泉金沢→一関市街

になる。
芭蕉たちは大変だったようだ。
合羽を着ていても濡れてしまうほどの雨に遭っている。
湧津で馬に乗り、夕方に一関にたどり着いている。

金沢というところは宿場町の風情があって、なかなかいい街だった。

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ここのすぐ近くに「花泉駅」があり、この日はここで終わり。

最終日に、ここから一関市街まで歩き、帰路に着いた。
途中に「芭蕉行脚の道」という大きな石碑もあった。
10キロほどの距離であった。
一関にたどり着けばいよいよ「平泉」である。

紫陽花(あじさい)のこと~本アジサイと額アジサイ

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あぢさゐの藍を盗みに闇迫る         長谷川秋子

(あじさいの あいをぬすみに  やみせまる)


今日、仕事で「アジサイ」のイラストを探していた。
しかし、「アジサイ」には「西洋アジサイ」と「額アジサイ」があることに気づき、

西洋アジサイと額アジサイのどっちがいいかな~?

とスタッフに聞いたら、数人から、

「西洋アジサイってなんですか?」

「額アジサイってなんですか?」

と聞き返された。

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「西洋アジサイ」(正確には「本アジサイ」だが…)は「大手毬」や「小手毬」の花のように、小さい花が球状に集まって咲くアジサイ。

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「額アジサイ」は、中央に、さらに小さい、粒のような細かい花が咲き、その周りを咢片が「縁」のように囲んでいるアジサイである。
咢片と書いたが、見た目はこちらのほうが「花」に見える。

スタッフの一人は、本アジサイのことしか知らず、額アジサイの花は「まだ全部咲いていないアジサイ」だと思い込んでいた。
粒のような小花を「蕾」だと思っていたのだ。
あきれる気持ちもあるが、言われてみるとわからないでもない。

調べてみると、なんと、アジサイは日本が原産。
もともとは「額アジサイ」が原種である。
突然変異もあるかもしれないそうだが、多くは中国経由でヨーロッパに渡り、品種改良され、今の本アジサイが生まれ、日本に逆輸入された。
なので「西洋アジサイ」とも呼ばれる。

しかし、日本の原種の「額アジサイ」ではなく、西洋から逆輸入されたほうが「本アジサイ」と呼ばれるのも変な話である。
しかし、西洋アジサイはとても明るい。
アジサイというとどうしても梅雨のイメージがあるが、じめじめした梅雨に西洋アジサイという光景がなければ、梅雨はもっとじめじめしたものになっていたろう。

俳句で「アジサイ」を考えてみると、日本原産の花にしては江戸俳諧などであまり見かけない。
それほどの名句も思い浮かばない。
歳時記を調べたら、

あぢさゐに喪屋の灯うつるなり     暁台

という江戸俳諧の句があった。
いい句ではあるが、名句というほどではない。

掲句は以前、紹介した「水明」二代目主宰、長谷川秋子の句。
秋子の句にはエロティシズムを感じる句が多いことは紹介したが、

長谷川秋子のこと

掲句も「盗み」に、という表現に、エロティシズムを感じる。
「藍」という音が「愛」に繋がるからだろうか?

この句も「額アジサイ」より「西洋アジサイ」をイメージしたほうがいいように思う。

信州蕎麦、高遠蕎麦

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身にしみて大根辛し秋の風             松尾芭蕉


今は上諏訪にいる。
明日はここで「夏爐」 850号祝賀会がある。
今日は伊那に行き、高遠蕎麦というのを食べた。
ソバつゆに味噌を溶かし、辛み大根おろしを入れて食べる。
実にうまかった。
天ぷらを頼んだら、なんと、林檎の天ぷらが出た。
貴重な体験をした。

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今日はもう一軒、上諏訪駅の近くで十割蕎麦を食べた。
実に不思議なソバだった。

見た目はとてもおいしそうだったが、正直に言えばうまくなかった。

ただ、なんとなく、何度か食べると癖になりそうな予感はあった。

さすがに蕎麦処。
他所ではこういう体験はなかなか出来ない。

夏爐(なつろ) 木村蕪城

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夏爐燃ゆ仏の供華にさるおがせ          木村蕪城(きむら・ぶじょう)

(なつろもゆ ほとけのくげに  さるおがせ)


今日は古田紀一主宰の「夏爐」800号祝賀会を取材した。
古田紀一先生とは、仕事でグラビア撮影、対談や吟行をお願いしたりして親しくさせていただいている。

7月26日、27日  下諏訪温泉、万治仏

長野県上田市 無言館 前山寺など


場所も長野県諏訪市…、諏訪湖岸の「鷺の湯ホテル」で、実にいいところである。
途中、一時間以上休憩時間があったので、諏訪湖でもブラブラしようかと思ったら、ホテルに「日帰り入浴」の看板があった。
せっかく温泉に来たんだから、風呂でも入るか、と思い、フロントの人に尋ねると、なんと「無料」で入っていい、と言う。
お金を払うつもりで、

宿泊客ではないんですが…。

と言ったのだが、それでもいいと言う。
客も私一人で、時間までのんびり湯に浸かった。

記念講演は、NHK俳句選者の高柳克弘「鷹」編集長。
私はNHK俳句は見ていないが、彼は「俳句王子」と呼ばれているらしい。
ところが本人も言っていたが、彼ももう30代後半で、子持ちである。
20代前半のころから、彼を知っているが、月日は早いものである。
夕方からは宴会で、スピーチの前に地酒をかなりいただいて、スピーチではちょっと失敗した。
それでもまあ楽しく過ごせたし、先生や奥様と久々に会い、会員の方といろいろお話も出来て、楽しい一日だった。

「夏爐」の創刊主宰は木村蕪城。
「夏爐」とは、文字通り「夏の爐」である。
夏に爐なんて焚くのか…と思うが、山深いところでは夏も夜は寒いので焚く。
いかにも信州らしい雑誌名である。

掲句。
「さるおがせ」というのに感嘆した。
「さるおがせ」とは、

樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣

である。
…ちょっとわかりにくい。
「地衣」とは「菌類」と「藻類」の共生体である。
私もよくはわからないが、簡単に言えば、菌と藻が一緒になったものらしい。
写真を見た限りでは形状は「シダ」にも近い。
しかし、さまざまな形態があるようだ。
森などの樹木の皮に生えて、垂れ下がっている。

「夏爐燃ゆ」という措辞は、信州の高地の山家を想像する。
その山家に夏爐が燃えている。
そこには仏壇があり、花が供えられている。
亡くなった親しい人、家族へのそれであろう。
その供養の花に「さるおがせ」がくっついていた…というのである。

供華は山から取ってきたものだろう。
それゆえ、知らず知らずに、さるおがせもくっついていたのだ。

風土だな~。

と思う.
信州の山家の暮らしがありありと見えてくる。
「さるおがせ」に野趣がある。
しかし、亡くなった人を思う心がある。
その亡くなった人も、この山に生き、この森に生きた人なのである。

最近はこういう句がすっかり無くなってしまった。
また、鑑賞の上でも、こういう句は見落とされ、評価されない傾向にある。
しかし、こういう何気なく、深い句はいつまでも語ってゆかなければならない。

「おくのほそ道」を歩く58 福島県伊達郡国見町~ 伊達の大木戸、国見峠

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先日のGWの、宮城県塩釜市~岩手県一関踏破のことは書き終わったので、ふたたび「福島県伊達郡」での記述に戻る。
これを書けば、深川から一関までの記述がすべて繋がる。

芭蕉は福島の飯坂温泉を過ぎ、桑折(こおり)の町を過ぎ、「伊達の大木戸」にさしかかる。
わざわざ、

伊達の大木戸を越す。

と『おくのほそ道』で書いている。
まるで、ここから「新たな地へ踏み入る」かのようである。
実際、それは間違っていない。

「伊達の大木戸」を説明しよう。
中世は、ここからが「奥州藤原氏」の本格的な勢力範囲だった。
江戸時代は、ここを越えると伊達藩になった。
現代ではここを越えると「宮城県」になる。
福島の白河の関が奥州の第一関門だとすれば、ここが第二の関門になるのではないか。

文治元年(1189)、藤原泰衡率いる奥州軍と源頼朝率いる鎌倉軍が戦ったのもこの地である。
当時、藤原氏が築いた「防塁」「土塁」のあとが残っている。
今は立派な道路が貫通しているが、昔は山坂がどこまでも続く「難所」であった。

登りながら考えた。
奥州軍と鎌倉軍の戦いについては、いつも不思議に思う。
奥州では、たびたび大和政権に反旗を翻している。
奥州は「反逆の地」であった。
しかし、それはもっぱら征服した大和朝廷側の一方的な言い分である。
奥州側からすれば、呼んでもいないのに勝手に侵攻してきて、彼らの政治制度や生活スタイルを押し付ける迷惑この上無い話だった。

不思議に思うことは、この奥州軍VS鎌倉軍「の奥州合戦」が実にあっけなく鎌倉軍の勝利になっていることである。
とにかく「奥州兵」は強かった。
平安時代後期、「前九年、後三年の役」という有名な反乱が起こった。
「前九年」であるから「九年間」の乱である。
奥州の乱を収拾するのに9年間もかかった、ということである。
「後三年」は「三年」である。
これらは前後して起きているから、合わせると「12年」の大乱である。

「前九年の役」の政府側指揮官は源為家、「後三年」は源義家である。
とくに源義家は「八幡太郎義家」と呼ばれ、「武士の中の武士」と言われた人で、のちに源氏の中で神格化された人物である。
その義家でさえ、乱を平定するのに三年もかかった。

それ以前、平安時代初期には、たびたび政府軍が破れた。
名将・坂上田村麻呂の登場によって、ようやく岩手まで平定出来たのである。
鎌倉軍との合戦以後も、奥州兵は強かった。
南北朝時代では、陸奥守で、南朝方の北畠顕家が奥州軍を率い、足利尊氏を撃破し、尊氏を九州まで逃亡させている。
とにかく奥州兵は強いのである。

その奥州兵が鎌倉軍との戦いではほとんどいいところなく、一方的に破れている。
伊達の大木戸の攻防も2、3日で決着がついている。
頼朝が優れていた、ということもあるだろうが、おそらく、内部がすでに崩壊していたのだろう。
鎌倉軍に従うか否か、奥州にとどまっていた源義経を誅殺するか否か…。
藤原氏の間でかなり争いがあり、実際、泰衡は多くの身内や家来を誅殺している。
この時点で「奥州藤原氏」は一枚岩ではなかったのだろう。

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伊達の大木戸には旧道があったが、残念ながら見としてしまい、舗装された道路を歩いた。
とにかく八月の暑い盛りで日射病寸前だった。
大木戸を登り切ったところに「貝田」という駅があり、ここで踏破を断念した。

振り返ると、今歩いてきた福島盆地を見下ろすことができる。
まさに「国見」の峠である。
盆地の真ん中に信夫山が見える。
福島盆地は実に美しい土地である。

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